帰宅した晃志郎は苦渋に満ちた表情をしていた。
ちなみに今晃志郎が仮の住処としているこのアパートがほんの数か月前、先程会った旧知の人物が住処としていたなど彼には知る由もない。
標的と接触し、機会を見計らい仕事をこなしその後自らにも始末を付ける。
ただそれだけの単純な仕事が途方もなく困難なものになったと自覚したが為だ。
何しろ標的と草十郎とはそれなりに親しい間柄に見える。
「冗談じゃねえ・・・」
そうなれば草十郎の性格だ。
関わるなと言われても確実に関わってくる。
それは すなわち草十郎と戦う事を意味していた。
旧知の間柄だから戦えないのではない。
そのような感傷など既に晃志郎は持ち合わせてはいない。
精神的な問題故に山から放逐された草十郎だが、身につけた芸は既に完成されている。
完成された芸を持つ草十郎と戦う事、それだけが晃志郎が畏れる事だった。
「・・・本当冗談じゃねえ・・・『魔鏡』とやりあう何ざ自殺行為そのものだ」
その声は暗闇にのまれ消えて行った。
それから、晃志郎は転入したのだが、その時晃志郎はあわや絶叫を上げかけた。
何しろ転入したクラスに草十郎本人がいたのだから。
これは直ぐにでもやりあうかと思われたのだが、そんな晃志郎の予想に反して、草十郎は学校でも私生活でも過剰に接触してくることもなく、晃志郎も標的に接触する機会を伺うも、機会に恵まれず、しばしの時が過ぎた。
事態が動きだしたのは晃志郎が転入してから一月後。
この日、冬休みに行われた裏山の特別清掃班、その第二弾が行われたのだが、その中には、晃志郎の姿もあった。
三学期の期末試験の補習の一環としてこの特別清掃が組み込まれたのだが、当初この特別清掃、一年計画の話だがこのままだと試験の補習にこれが常習的に盛り込むきではと生徒達の間で戦々恐々としていた。
「しかしお前も良くやるよな葉月、こんなくそ寒い中ジャージだけで終わりも見えねえ清掃なんて洒落にならねえって」
そう言うのは晃志郎と同じ班組となった芳助が呆れたように言う。
当然だが、彼は掃除もする事無く竹箒を手にぶらぶらするだけだ。
「そうでもないだろう?木乃美、日も出ているし動けば身体も温まる」
そんな芳助に『何寝言ほざいていやがるんだ?』と言わんばかりに反論する晃志郎と
「それに終わりが見えないなんて事は無いぞ木乃美。やっていれば終わりも見える」
似たり寄ったりの表情で同じような反論をする草十郎。
草十郎もまた、前回同様、特別清掃班に組み込まれていた。
勉学に対する意欲も姿勢も優等生そのものだが、いかんせん下地があまりにもなく、数か月でそれが改善される筈もなく、それが故に今回も補習行きとなったのだ。
「終わりって一年後?十年後?百年後?いつの話だよ?俺達がよぼよぼの祖父さんになったって終わらねえって」
文句ばかり垂れ流し、動く気配も見せない芳助に晃志郎も草十郎も目配せ一つで無視する方針を固め、黙々と作業を再開する。
それに合わせる様に、
「ほう、そんなに寒いのが嫌か?なら喜べ、来年度の一学期の特別清掃にはてめえを最優先で召集してやる。少なくとも寒いなんてことはねえからな」
前回と同様、芳助の背後にいつの間にやら姿を現していた鳶丸がどすの利いた声で悪夢のような事を言ってきた。
「げげ!その声は・・・ってふげっ!」
「同じ事やってんなよったく」
鳶丸の声に反応しようとしていた芳助の脳天にくまでの柄が炸裂する。
「鳶丸、手加減しておいてくれ一応貴重な戦力だから」
「ああ、手より口の方が達者に動くが、気分転換にはちょうど良い」
更なる追い打ちを仕掛けようとした鳶丸だったが、背中に眼でもあるのか手も休めず、振り返りもせず草十郎と晃志郎が一応芳助を庇う。
「ちっ、命拾いしたな木乃美、草の字と晃の字に感謝しろよ。それにしても草の字、晃の字、おめえら随分息が合うよな」
「「そうか?」」
「そうかって・・・誰がどう見ても息が合っているじゃねえか静希に葉月」
「そうでもないと思うが・・・」
「そうだな。別これ位普通だろう?」
「「いや、普通じゃねえから」」
手を休めず、目も合わさず、それでも当然の様に息もぴったりに会話する二人に呆れた口調で返答する。
草十郎がごみをかき集めれば当然の様に晃志郎はごみ袋に放り込み、晃志郎がごみ袋をリアカーにまとめれば草十郎が間髪入れずに焼却炉へと運んでいく。
それも声をかける事も無ければ目配せすらする事も無く、だと言うのに互いの作業が被る事も無い。
これ以上無い程息が合っていた。
「で、鳶丸君は何をしにやって来たんだ?こんな寒い所に」
「確かにな。俺の記憶が確かであれば槻司、お前足に根を生やすがごとく、焼却炉の前で火の番をすると豪語していたと思ったが」
嫌味すらも見事なコンビネーションを見せつける。
「何、休憩の時間になったからその伝達だ。ああ木乃美、お前は当然だが居残れ。どう考えてもお前はサボって草の字と晃の字だけが働いていただろうからな。休憩したけりゃ、この二人が持ってきた分のごみ集めてからにしろよ」
芳助が休憩に行こうとするのを牽制するように冷酷に告げる。
「げぇーそりゃねえだろう―殿下!贔屓ってもんじゃ」
「んな訳ねえだろう。功労者にはその分、相応の報奨が贈られる。世の鉄則だろう」
芳助の非難も一刀両断に切って捨てる。
「なあなあ〜静希、殿下あんな事言っているけどひでえと思わねえか?」
そこで最終兵器とばかりに芳助は草十郎に助けを求めるが、当の草十郎は腕を組み、難しそうな表情で
「葉月から言われたんだ。『木乃美はもう少し厳しく躾けた方が良い。あれは甘やかせば甘やかすほど駄目になっていく奴』だって言って」
「葉月――――!!」
「おお、言い得て妙じゃねえか」
晃志郎の芳助の評に本人はこの世の終わりとばかりに吼え、鳶丸は心底感心したように心からの同意を示した。
そんなこんなで特別清掃も一応だが無事に終わり、草十郎達は市街地にいた。
ほとんど働いていなかった筈の芳助の主導の元、顔見知りだけで打ち上げを兼ねた晃志郎の歓迎会を行おうとしていた。
いつもはバイトが詰まっている草十郎もこの日は完全なオフでこの打ち上げに参加する事になった。
「でも木乃美も考えているね。葉月の歓迎会をやるなんて」
「さして考えていねえさ、俺を引き込んだのもスポンサー目当てだからな、ま、最も」
そう言う鳶丸の視線の先には、あり得ないものを見るような目を視線の先にいる人物に向ける芳助の姿。
そこにいたのは艶やかな黒髪を腰まで伸ばした美少女。
普通なら狂喜乱舞する筈だが、彼女が出て来たからにはそんな気分にはとてもなれない。
「なあ殿下、なんでここに蒼崎がいる訳?」
そう彼女こそ三咲高校生徒会長蒼崎青子、生徒からも教師からも畏怖され、恐れられる実質三咲高校の頂点に君臨する暴君。
「あら?木乃美君、私がいるとなにか不都合でもあるのかしら?」
「いやいやいや!そうじゃなくて、なんで蒼崎がここにいるのか純粋に疑問に思っただけで」
「ああ、草十郎に頼んで来て貰った。てめえが暴走しない為の保険だ。てめえの場合勢いで酒を頼んでも可笑しくないからな」
未成年の飲酒は法律で禁じられているからなと続ける。
そんな鳶丸の言い草に非難じみた視線を向ける者はここにはいない。
いるとすれば、何度も夜通し遊び学生の分際で朝帰りを目撃している青子、鳶丸共通の友人である久遠寺有珠のみだろう。
「なあ、槻司、木乃美がやけに怯えているがあれは誰だ?」
「ん?ああ葉月は会った事なかったな。そりゃ今まで幸運だったな。あれがうちの生徒会長様だよ」
「へえ、あれが・・・」
「ま、詳しい人となりは草十郎にでも聞いてくれ、付き合いの時間は一番短いがその分濃密な付き合いしているからな」
そんな事を言い合いながら、昨年オープンしたばかりの三咲市ではただ一軒のファーストフード店に入っていった。
そんなちょっとした打ち上げも終わり夜には解散と相成ったのだが、鳶丸は再び三咲高校の裏山にいた。
晃志郎から「少し相談したい事がある。裏山に来てくれないか?」と言われてやって来たのだ。
「槻司」
そこに晃志郎がやって来た。
「悪いなこんな夜更けに呼び出して」
「まあ、別に良いさ。家に帰る気にもなれんからな」
「そうか・・・」
しばしの沈黙が周囲を包む。
「で、葉月、要件はなんだ?」
「ああ、実はだな」
そう言いながらも晃志郎は右手がコートのポケットに収められているが、その軍手は既に脱いでおり包帯も解かれている。
ポケットから右手を出そうとした瞬間、
「・・・やっぱり俺を殺すのか?」
何でもないように鳶丸の口から驚くべき言葉が出て来た。
これが何かしらの感情があれば返事も出来るが、鳶丸の表情は見事に無表情だった。
「・・・」
それに面食らったのか晃志郎も動きが止まり喉が凍り付いた様に言葉が出てこない。
再び沈黙が包む。
それでもようやく絞り出すように言葉を吐き出した。
「・・・いつから気付いていた」
「そんな予感があったのは初日だな。時折俺を見ていただろ?」
「それだけでわかるかよ普通・・・」
「ま、確信を抱いたのは今お前を見た時だな。俺よ結構前の話なんだが、明確に殺されかけた事があってなその時と似ているんだよ。嫌な空気の流れが」
「なるほど・・・だったら隠しても仕方ないか。槻司・・・俺としてはお前の事それほど嫌いじゃなかった。付き合いやすいと言うか、着かず離れず、そんなありようが意外と心地良かった。だが、これ以上はいらぬ情を抱いちまう。憎んでくれて結構、いや・・・永久に憎んでくれ」
そう言ってゆっくりと右手が外気にさらされる。
晃志郎の手には本人が言うような傷など何処にもない。
ごくありふれた普通の手だ。
だが、それが親指側から見た話、小指側から見た晃志郎の手は異形と呼んで差支えないそれだった。
小指の先端から手首まで皮膚が異様に硬質化している。
いや、小指部分に至っては骨が露出している。
しかも皮膚もむき出しになった骨も作為的になのか尖りそれ自体がもはや鋭利な刃物と化している。
「・・・どうしたんだそりゃ」
流石にこれは予想してなかったのか鳶丸は呆然としている。
「これでお前を殺すそれだけだ」
そう一息に言うや一気に距離を詰めるや一息に鳶丸の首目掛けて刃と化した手刀を振り抜いた。
仕留めた、
晃志郎は確信を抱いていた。
不意も突いた、相手が防御を取る暇も与えなかった、一気に鳶丸の首を狩り取った・・・筈だった。
なのに・・・振り抜いた手に感触は無かった。
肉を切り裂く感触も骨を砕く感覚も、何よりも手に血の熱さも一切感じなかった。
「?」
不審に感じた晃志郎の視線の先には首を狩り取られた鳶丸の死体は何処にもなく、それどころか鳶丸の姿すらなく鳶丸がいた所には
「・・・鳥・・・だと・・・」
一羽の鳥がいた。
それも全身青い駒鳥。
その鳥が鳴きながら一帯を飛び回っている。
晃志郎自身には判らぬ事だが、もしもこの鳥の言葉を介する事が出来れば辟易していただろう。
(なんなんすっか!あれ、ありえねえっす!手刀で人間の身体斬り裂けるってなんなんすっか!あれリアルに聖剣の持ち主なんなんすっかー!)
晃志郎も旧知の人間と同様、動植物にはドライと言えるほど徹底したリアリストなのだから、動物が人語を話すなど悪夢そのものなのだから。
それはさておき、何が起こったのか全く理解できなかった晃志郎だったが、ただ一つだけ明確に理解した事がある。
「・・・はめられた・・・と言う事か・・・」
誰にともなく呟いた声に足音が応じた。
その方向に視線を向ければそこにいたのは予想通りの人物。
「・・・静希・・・」
「やっぱり鳶丸だったんだね。君が殺そうとしていたのは、葉月」
草十郎がいた。
「・・・俺には関わるなと言ったはずだが」
晃志郎は内心の諸々の感情を押し殺して声を振り絞る。
「放って置く訳にはいかないさ。俺は友人が殺す所も殺される所も友人が死ぬ所も見たくないから」
「・・・全く・・・お前な、それこそが山から放逐された原因だって理解しているよな」
「そうも治るものじゃないさ」
本来ならこんな無駄口を叩く前に草十郎を殺すべきだろう。
しかし晃志郎は動けなかった。
理解していたからだ。
既に自分は『魔鏡』に囚われている事を。
(呼吸は既に合わせられている、意識も既に合一しているに違いない。勝ち目はないに等しい・・・)
だとしても自分に課せられたのは標的の始末、それを邪魔するのであれば旧知の人間だとしても容赦はしない。
何より仕掛けてしまった以上、ここで草十郎を生かせばもはやこのような機会は永久に訪れない。
自身の弱音と迷いを打ち砕き、晃志郎は一気に距離を詰める。
そのまま右手を真横に振り抜く。
草十郎の首を狩り取る為に。
しかし、その心算はもろくも潰えた。
いつの間にか草十郎は半歩前進している。
つまりは懐に入られたと言う事。
だが、別に脅威ではない。
刃から逃れたとしても、外ではなく内に逃れたのならば柄で首の骨をへし折れば良いだけ。
発生してから今日までずっと磨き上げられてきた晃志郎の芸はその手刀を本物の刃にするに飽き足らず、手刀を支える二の腕を樫の木にも匹敵する硬度をも与えていた。
一切迷いなく晃志郎の腕は草十郎の首をへし折ろうと勢いそのままに振り抜いた。
晃志郎の腕は命中し、その腕に骨が折れる感触を確かに感じた。
しかし、折ったのは草十郎の首ではなく草十郎の左腕、晃志郎の腕が草十郎の首に命中する寸前、草十郎は左腕を盾にして首を守った。だが、草十郎は守るだけではなかった。
いや、そもそも外に逃げるのではなく内に潜り込んだのはこの為。
折れた腕を気にもせず晃志郎の右手首を掴むや、既に握りしめられた右の拳を晃志郎の腕に振り下ろす。
振り下ろす速度と自身の体重、更に自分を顧みない一撃は晃志郎の右腕の骨をへし折った。
「!!」
思わぬ激痛に表情を歪めるも強引に草十郎の手を振り払い、距離を開ける。
「・・・痛み分けか」
その言葉に嘘は無いだろう。
双方とも片腕を折られた。
「・・・静希どうしても邪魔をするか・・・」
「・・・ああ、人殺しはよくない事だぞ葉月」
「それで『はいそうですか』って退ければ苦労はねえよ」
とは言え現状では晃志郎に勝ちの目は薄い・・・いや皆無と言っても過言ではない。
鳶丸を殺すためには草十郎を殺さねばならない。
だが、今のまま戦闘を続行しても良くて相討ちだろう。
背に腹は変えられぬ、そう決断するや踵を返す。
「・・・明日同じ時間、ここの奥の旧校舎で待ってる。俺を本気で止めたけりゃそこに来い」
そう告げて晃志郎は静かにその場を立ち去った。